山岡荘八『小説太平洋戦争』(9)-1
8月10日のご聖断後、天皇陛下自らの申し出で、ラジオ放送を通じて国民の前に立たれることになりました。放送までの間、近衛第一師団で青年将校により師団長の森中将が殺されました。偽の師団命令だされ、宮城と陛下の録音された玉音レコードを巡って近衛師団のクーデターが起こされます。
近衛師団の呼びかけに他の師団が呼応しなかったこともあって、クーデターは自壊し首謀者は8月15日、自決します。並行して陸軍大臣阿南惟幾大将が同じく15日未明、自決します。遺書はきわめて簡潔で短く「・・・一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と認められていました。
阿南大将に続いて軍関係者で各部署で活躍された大将・中将~一等兵の兵隊に至るまで自決をしたもの568名を数えたと記されています。一人一人に主張がありドラマがあります。興味のある方は、本文さらにはその延長線上に自伝や伝記がそれぞれ出されています。
8月26日、連合軍の進駐が厚木と指定されました。しかし、反乱軍が厚木を根城に意気軒昂として戦いのそぶりを示します。これも説得し、連絡委員会が結成され有末中将が委員長、同級生の鎌田中将が副委員長を勤め、29日に延長されたマッカーサー元帥が進駐してきました。
先遣隊は、「テンチ大佐」といっただけで委員長の誠意を尽くした挨拶にも冷たく、勿論握手などもってのほか、敵愾心と警戒心を持って接します。委員長は、何時心が通うか途方も無い時間を必要とすると感じました。先遣隊は、メンバーの中に旧友の鎌田中将を見つけ、直ぐに面談し初めてなごみます。以前、滞米中にマ元帥のチームに属し剣道を以て勇名をはせていた鎌田中将がいたことは天佑でした。日本にとって重大な決定にも重要な役割を果たしています。
9月2日に戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印式に政府代表に重光葵外相、軍部を代表して梅津参謀総長が出席します。この2人に陛下は別々に面会し労を謝したとされています。幕引きとは大変な作業です。
占領時代がはじまり、戦犯とされた方々が次々に逮捕されていきます。9月27日に突如、天皇陛下がマ元帥に会いに行きます。マ元帥は命乞いに来たかと思ったのですが、「戦争責任は全て私にある。諸国の裁決に委ねるためにきた。」と言われ、天皇陛下の誠意に打たれ尊敬するようになって、この後、半年に1回ずつの会談が行われました。
戦犯を裁く戦勝国主催で「極東軍事裁判」が開廷されます。筆者は通称「東京裁判」は、違法としていますが、何らかのけじめをつけなくては終わりを迎えることができないのです。結果、戦犯には、7名の絞首刑者と全員の有罪が言い渡されます。
刑は昭和23年12月23日に執行されました。ドイツの戦犯の絞首刑者の骨は空中散布されたといわれます。日本でもそのように行われるようでした。遺骨を遺族にの願いは聞き入れられず、決死の覚悟で火葬場で採集の際に余った混じりあった7人の骨を密かに集めた方々がいます。別人の名前で供養し、昭和35年に「殉国七士墓」を愛知県の「三ヶ根山」に建立し納骨しました。
私も5年ほど前の6月に御参りに行きました。周りに、色々な部隊の慰霊碑が沢山建てられていました。その慰霊碑を年老いた方々が掃除をしていました。どの慰霊碑も割りと手入れが行き届いていました。お参りをしながら涙が溢れ出て止まなくなってしまいました。
このとき、満州引き上げの「お町さん」の関係の碑もお参りする機会を得ました。
9巻も2回に分けて記すことにしました。残すは、ソ連の満州への侵攻についてです。
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